この記事は、鹿港の定番である「老街」や「天后宮」の賑わいを楽しみつつも、それだけで終わらせたくない穴場好きの方へ向けて書きました。
特に、80代の母を連れた三世代旅行で、観光地の喧騒からふっと離れられる場所を探している方に、この記録が、誰かの旅の背中を少し押せたら、それで十分です。
角を一本折れたら、母が補聴器を押さえた
2026年1月、台南で暮らす夫を訪ねた私たちは、家族3人で桂花巷藝術村へと足を向けました。賑やかな大通りから角を一つ曲がった瞬間、母が自分の補聴器をそっと押さえながら、「あれ、急に静かになったねぇ」と呟きました。
鼻先をかすめたのは、削りたての鉛筆を思わせる乾いた木の匂いです。そこに職人が使う塗料の甘い香りが混じり、思わず深呼吸をしました。気づけば、先ほどまで急いでいた私たちの足取りは、母のゆっくりとした歩幅に自然と重なっていました。
夫がスマホをポケットにしまった理由
老街で漂っていた牛舌餅(台湾風の焼き菓子)を焼く香ばしい匂いが、嘘のように消えました。代わりに、息を吸うと、空気がすこし冷たく感じるほどの静けさが、路地を満たしていました。
夫の宏一は、手に持っていた地図アプリをそっと閉じ、ポケットにしまいました。それだけで、ここが「目的地を探す場所」ではなくなったことが伝わってきました。

「ねえ、ここだけ時間が止まってるみたいじゃない?」

「……ああ。もう、スマホを見ている場合じゃないな」
柱に触れた母の手と、少女時代の記憶
ここは、かつての宿舎を再生した場所でした。格子窓や黒ずんだ瓦を眺めていると、母がある建物の柱にそっと手のひらを当てました。目を閉じて、懐かしそうにつぶやきました。

「ああ、おばあちゃんの家に似てる。戦前の、あの懐かしい匂いがするわね……」
昭和初期に生まれた母にとって、ここは「台湾の観光地」ではありませんでした。柱の感触や木の匂いを通して、少女時代の記憶へと繋がる扉だったようです。潤んだ目で軒先を見つめる母を、私と宏一はただ横で、黙って見守っていました。
使い込まれた筆と、描きかけの下絵
母が過去を見つめる一方で、私たちの目は、格子窓の奥で動く「職人の手」に釘付けになりました。作業台には、毛先が割れるほど使い込まれた筆や、まだ色が乗りきっていない描きかけの下絵が転がっています。
職人さんの指先が迷いなく動くたびに、木を削る音や絵具の混ざる音が、心地よいリズムとなって耳に届きました。

「ここは、見せるための飾りじゃないな。日々を積み重ねてきた人の、本物の時間が流れてる」
気づけば私たち3人は、誰も写真を撮っていませんでした。スマホをバッグの奥にしまったのがいつだったか、もう思い出せません。ただ、3人とも黙ったまま、同じ方向を向いていました。
職人さんが、母の手に筆を持たせてくれた
工房の戸口をのぞくと、燃えるような朱色と眩い金色の「獅子頭」が目に飛び込んできました。その迫力に圧倒されながら、私はスマホで「とても綺麗ですね」と打ち込んで職人さんに見せました。
すると職人さんは筆を置き、クシャッと顔をほころばせました。そして母の手をそっと包み込むように握り、自分の使い古した筆を母の手に持たせてくれたのです。

「言葉は分からなくても、この人の真心が伝わってくるねぇ。いい顔をして作ってらっしゃるわ」
母はアプリの画面よりも、職人さんの手元をじっと見つめていました。「昔ね、近所に下駄を作るおじいさんがいてね。同じ顔をしてたわ」と、帰り道に話してくれました。
母の声は、いつもより少し遠くにありました。翻訳アプリには訳せない何かが、握り合った手の温もりを通して、母の奥深いところまで届いていたのだと思います。

「うまくやろうとすると、手が強張る」金箔を貼りながら
金箔を貼り付けていた作家さんが、こちらを向かずに手を動かしながら、ポツリと話してくれました。私がアプリで『難しくないですか』と打ち込んで画面を向けたとき、作家さんは少し間を置いてから口を開きました。

「うまくやろうと欲張ると、手が強張ってしまう。それよりも、今日の自分をそのまま出し切ること。作品には、その時の自分が正直に映るからね」
その言葉を聞いたとき、毎日を完璧にこなそうと必死だった自分の肩が、ふっと軽くなりました。

「私、最近『ちゃんとやらなきゃ』ってばっかり思ってたかも。この路地に来て、なんだか救われた気がする」
夫は黙って頷き、私の肩にそっと手を置いてくれました。私にとって、それで十分でした。

高齢の母と歩いて分かった、二つの「ヒヤリ」
素晴らしい時間の一方で、現実的な備忘録も残しておきます。
段差は、必ず先に声をかける
古い宿舎を再生したこのエリアには、入り口に「不規則な数センチの段差」が潜んでいます。
獅子頭の色彩に夢中になっていた母が、その段差に足を取られ、体勢を大きく崩した瞬間がありました。宏一が咄嗟に腕をつかんで、転倒は免れましたが、一歩間違えば大怪我でした。

「お母さん、ここ、一歩大きく跨いで! ほら、もう一段あるから!」

「はいはい、わかったわよ」
これ以降、工房に入るたびに「足元に一段あるよ」「次は下がるよ」と先に声をかけ合うのが、この旅の新しいルールになりました。
トイレは、出発前に済ませること
藝術村は豊かな緑に包まれている反面、トイレの案内板は見事なほど植栽の陰に隠れています。同じような木造建築が続く路地では、一度迷うと出口がつかめなくなります。

「ごめんね、そろそろ限界かもしれない……」
背中に冷や汗を流しながら家族3人で探し回った時間は、今では笑い話です。
「散策前に、必ず近くの鹿港公会堂で済ませておくこと」母より一歩先に動くのが、この旅で私が手に入れた、小さな心がけです。
私たちが現地で学んだ、三つのコツ
鹿港の象徴である「老街」や「天后宮」の賑わいから、ほんの数分。すべて徒歩圏内で移動できるこのエリアを、より深く楽しむために、私たちが感じたコツを書き記します。
15時すぎを狙う
西に傾きかけた陽光が木造宿舎の壁面をなでるように照らし、古い木肌が一番温かい色に染まる時間帯です。普段、旅先でほとんど写真を撮らない母が、その光景を見て「ちょっと待って、綺麗ねぇ」と自分からスマホを取り出したのは、この時間でした。
ただし、多くの工房は17時を過ぎると一斉に戸を閉め始めます。余裕を持って、15時前後の到着を目指すのがおすすめです。
彰化駅から6900番バスで向かう
彰化駅のレトロな駅舎で待つ、オレンジ色の「6900番バス」。悠遊カードをかざして窓際の席に滑り込めば、あとはガタゴトと揺られるだけです。
約40分の車窓には、赤煉瓦の家々とのどかな田園風景がゆっくりと流れていきます。隣に座る母の膝の上に手を重ね、「あの花、なんていう名前かしら」と話した時間は、路地に辿り着く前の、静かなプロローグになりました。
月曜日は避ける
多くの工房が定休日のため、職人さんとの出会いを楽しみにしているなら、平日の火〜金曜日がおすすめです。
| 項目 | 旅の備忘録 |
| 正式名称 | 桂花巷藝術村(Guihua Lane Arts Village) |
| 場所 | 鹿港・天后宮から徒歩圏内 |
| 公式Facebook | こちらから最新情報をご確認ください 駐村作家が変わるため要チェックです |
| 定休日 | 月曜日はお休みが多い |
※2026年1月時点の情報です。訪問前に最新情報の確認をお勧めします。
帰国後、母は待ち受け画面を変えた
帰国して数日が経った頃、母のスマホの画面が変わっていました。鹿港で撮った、獅子頭の前に立つ自分の写真でした。 「これが一番気に入ってる」と、少し照れくさそうに言いながら見せてくれました。 その一言が、この旅で一番大切なものになりました。

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